トレードの合間に聴いた落語を一日一席ずつ紹介していきます。

古今亭志ん朝(三代目) 五人廻し


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五人廻し(ごにんまわし)
●関東の遊郭には「廻し」という制度がある。一人の遊女が一度に複数の客の相手をするのであるが、遊女の嫌な客になると長時間待たされたり、ひどいのにはちょっとしか顔を見せない「三日月振り」とか、全く顔を見せない「空床」「しょいなげ」。来てもすぐ寝る「居振り」などがあるので、客はたまらない。しばしばもめ事が起こってしまう。
そんな客の苦情を一手に引き受けるのは、「若い者」「妓夫太郎」(ぎゅうたろう)と呼ばれる男性従業員である。吉原のある遊郭、遊びは終わって、客と遊女が床にはいる大引け(午前2時ごろ)も過ぎたころ、若い者は、客たちからお目当ての遊女が来ないと文句を言われて四苦八苦である。
一人目の客からはさんざん毒づかれて、吉原の由来まで聞かされた揚句、「ぐすぐすしてやがると、頭から塩かけてかじっちゃうぞっ!!」と一喝される。
「少々御待ちを願います。ええ、喜瀬川さんえ」と汗だくになって遊女を探しているが、二人目の客に「ちょいと廊下ご通行の君」と呼ばれる。今度は薄気味悪い通人で、ねちねちと責められ、「君の体を花魁の名代として拙に貸し給え。」と迫られ、焼け火箸を背中に押しつけられそうになる。
ほうほうの態で逃げ出すと、三人目の客に捕まる。権柄づくの役人で「小遣!給仕!」と呼ばれ、さんざん文句を並べて「この勘定書きに、娼妓揚げ代とあるがね。オイ、こら何じゃ。相手が来んのに揚げ代が払えるか。法律違反じゃよ。」と責められる。
「へえ。お待ちくださいまし。」と逃げだせば、四人目の客が「若けえ衆さあん。若へえ衆さあん。ちょっくらコケコ!」と呼んでいる。「鶏だね。どうも。・・・へい。何でげす。杢さんじゃありませんか。」見れば馴染みの田舎客である。
だが、この田舎客も前の三人と同じ苦情を並べたて「ホントにホントにハア。ホントにイヤになりんこ。とろんこ。とんたらハア。トコトンヤレ、トロスク、トントコオ。オウワアイ!」と意味不明の叫びをあげて若い者を呆れさせる。
そんな騒ぎをよそに遊女の喜瀬川はお大尽と遊んでいるが、若い者の知らせにお大尽の方が気にして「おい。花魁。どうも困ったことじゃな。ワシが揚げ代を他の四人に渡してやるちゅうに、帰ってもらうべえ。」「じゃあ、わちきにもお金をくんなまし。」「お前に銭こ渡してどうする。ほれ。」「ありがと。じゃ、このお金を主さんに上げますから、四人と一緒に帰ってくんなまし。」
 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BA%BA%E5%BB%BB%E3%81%97 より転載)
 
仕事の頭を切り替え、新幹線の自分の席につき、ビールを飲みながら、今回のCDを聴く。天下の志ん朝が時空を超えて、自分だけのために新幹線内で独演会をやってくれる。新幹線は走る、あわせて志ん朝の落語「五人廻し」の“吉原縁起の啖呵”も疾走する。ドライブ感、抜群である。まさに至福の瞬間、豊穣なる時間である。最高の贅沢だ。
(Amazonカスタマーレビューより転載)
 
で、志ん朝の「五人廻し」も聴いてみる。
『落語研究会 古今亭志ん朝全集(下)』、DVDである。
昭和48年(1973)8月30日の落語研究会。
志ん朝は昭和13年(1938)の生まれだから、じつに35歳のときの高座である。
すでに美しい彩りをした「華」が見られる。
この人に「萌芽」はあったのだろうかと疑問にすら思う。
・・・志ん朝の落語は、どんな噺でも登場人物一人ひとりの描写が明確で抜群であるとの評価が高いのだが、この「五人廻し」でも頷ける。
ことに(ここは喜多八も大変に素晴らしかったが)、最初の男が若い衆に対して吉原の由来を語る蘊蓄啖呵は鮮やかなもので、いろんな落語家がちょこっとだけウンチクをたれて「落語は勉強になるんですよ」的なことを云っているのだが、まさに落語こそ学校であるということを思い知らせてくれる場面である。
・・・志ん朝が演じる花魁はどれも濃厚な色気と男を手玉にとる才気、それにちょっぴりの風刺が含まれた、落語においてはほぼ完璧な「女郎像」になっているのだが、この喜瀬川は傍にいる田舎のお大尽同様に、あるいはお大尽以上に無骨でクールでふてくされている。
お大尽は自分のところにばかりいないで他の客のところにも廻ってやれと何度も云う。
それは、喜瀬川が「自分のもの」であるという自信から出る余裕の言葉である。
だが、喜瀬川は(サゲではこのお大尽すら振ってしまうのだから)どこまでも投げやりだ。
志ん朝の喜瀬川は、こんな場末の遊郭に身を沈めた花魁の悲しい性を描こうという文学的(あるいは社会的)意図はまったくなく、ただただ「面倒くさい」と感じているきわめて現代的な女性として描かれているのだ。
後の志ん朝であれば、ふくよかな艶気を漂わせる女の風情のなかに悋気も風刺も皮肉も現実認識も含ませてしまうという技巧を発揮させているのだが、三十代の志ん朝の喜瀬川は、それはそれで面白い。
もっとも卑屈な妓夫太郎(若い衆)が、もっとも狂言廻しとして活躍し、かつ物語全体の監視役・批評役として機能していることは云うまでもなく、志ん朝もそれを律儀に演じている。
一人の人間のなかに重層的に充満している性質を一度に出すことは不可能だが、志ん朝は、芝居の心得もあった人だからであろうか、それを表情と仕草と声の調子という身体表象によって驚くほど正確かつ的確に観る者へとさしだしてくれる。
 (http://green.ap.teacup.com/april/496.html より転載)
 
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